紗和の日記
パンケーキが…パンパンケーキに!
昨日の夜はちょっと気分を変えて、久々にパンケーキを焼いてみた。ふわふわの幸せな朝食を目指して、気合いを入れて生地を作り、丁寧に焼く…つもりだったのだが、結果は想定外。
焼き上がったパンケーキを見た瞬間、思わず「これ、本当にパンケーキ?」とつぶやいてしまう。ふわふわどころか、パンパンに膨らんだ上にカッチカチ!包丁を入れる音が「サクッ」ではなく「ゴリッ」。まるでクッキーとパンの中間みたいな何かが誕生してしまった。
一応、恐る恐るひと口食べてみたら…やっぱり硬い!しかも噛みごたえ抜群すぎて、パンケーキを食べているはずなのに、なぜか「運動中かな?」という気分になる。おかげで顎が良いトレーニングになった気がするけど、これを朝から求めていたかと言われると、正直ノーだ。
原因はどうやら、粉を入れすぎたことと、生地を混ぜすぎたことらしい。ふわふわパンケーキの夢は散ったけど、これはこれで新しい発見。次回は、もう少し粉を控えめに、優しく混ぜてリベンジしようと思う。
硬さだけは一流のパンケーキを前に、「これも人生」と苦笑い。ふわふわパンケーキを目指して挑戦は続く!
大盛りからあげ弁当で、至福と苦しさの両方を味わう
今日はなんとなくお腹が空いていたので、「今日はがっつりいこう!」と意気込んで、大盛りからあげ弁当を買ってみた。大盛りのからあげがぎっしり詰まったお弁当の蓋を開けた瞬間、「これは食べ応えがありそうだ」とワクワクしながら、一つひとつじっくり味わうことに。
サクサクの衣にジューシーな鶏肉がしっかり詰まっていて、思わず笑みがこぼれる美味しさ。食べるたびに、からあげの香ばしさとボリュームが口いっぱいに広がっていく。最初はペースよく食べ進めていたけれど、半分を超えたあたりから、胃が少しずつ「もう限界かも」と囁き始める。
それでも、「せっかくの大盛りだから!」と頑張って完食。でも、食べ終わった瞬間にやってきたのは、満腹を通り越した「苦しい…」という感覚。お腹がパンパンになって、しばらく動けなくなってしまったけど、それでも「美味しかったから良し」と自分に言い聞かせる。
大盛りのからあげ弁当は、確かにボリュームたっぷりで苦しかったけど、やっぱり満足感も同じくらいの大盛りだった。次回はもう少し控えめにするかもしれないけど、この満足感はきっと忘れられないだろう。
日々のイライラとの付き合い方
最近、毎日のようにイライラする場面に遭遇している気がする。どこに行っても、目の前に現れるのは、なんとも自己中心的な人々。電車で周りを無視して大声で話す人や、道を塞いで歩く人を見るたびに、ついイライラがこみ上げてくる。
心の中では、「もう少し寛大にならないと」と思っている。何も気にせず穏やかに過ごせる人を見て、あんなふうにいられたら楽なのに、と羨ましく思うこともある。でも、どうしても自分勝手な行動を見ると、頭ではわかっていても気持ちが反応してしまうのだ。
「自分がどう思ったって、他人は変わらない」って頭では理解している。だからこそ、自分の中でどうにか気にならないようにしたいと強く願っている。でも、そう簡単にはいかないものだ。つい、心の中で文句を言ってしまう自分がいる。
今日もまたイライラに付き合わされる日々だけど、少しずつでも自分の心をコントロールしていけたらと思う。きっと一歩一歩の積み重ねが、気にならない自分への近道なのかもしれない。
カラオケ熱、マイクを握りしめたその代償
今日はカラオケに行って、思いっきり歌ってきた。好きな曲を全力で歌うのは本当に楽しいけど…今、手が痛い。そう、いつものカラオケ後の痛みだ。
気持ちが入ると、ついマイクを強く握りしめてしまうクセがある。まるでマイクが逃げていくかのように、しっかりと握りしめているのだが、そのせいでカラオケが終わる頃には手がズキズキと痛む。「もう少し力を抜いて歌おう」と思うものの、いざ歌い始めるとテンションが上がってまた同じことの繰り返し。
この痛みも、私にとってはカラオケの「後遺症」のようなもの。でも、手が痛くなるほど全力で歌えたという証でもある気がして、少しだけ満足感もある。次回こそはもう少しリラックスしてマイクを持とう…そう思いつつ、きっとまた握りしめてしまうのだろう。
今日の手の痛みも含めて、これが私のカラオケ愛の一部。しばらくは痛みと仲良くしながら、次回のカラオケを楽しみに待つとしよう。
蜜たっぷりの焼きさつまいも、最高のご褒美
今日はなんと、友人からさつまいもをいただいた。せっかくだからシンプルに焼いて食べることに。秋の味覚って感じで、焼きあがるのを待っている間から、ほのかに甘い香りが漂ってきて、気分もすっかり秋モード。
さつまいもが焼き上がり、熱々のところを割ってみると…中から蜜がじわっと染み出てきて、もう見るだけで美味しそう。早速ひと口かじると、口いっぱいに広がる甘さ!自然な甘みがたっぷりで、まるでスイーツみたい。
こういうシンプルな料理だからこそ、素材の味が引き立つ。普段はおやつとして何か買ってくることが多いけど、焼きたてのさつまいもをいただくのも贅沢な気分になれて良いものだ。次はスイートポテトにも挑戦してみようかな、なんて思いつつ、今日は蜜たっぷりの焼きさつまいもに大満足のひとときだった。
辛さの限界に挑戦!でもやっぱりほどほどがいい
今日は、ちょっと気分を変えて「辛いラーメン」に挑戦してみた。辛いものは好きなんだけど、今回は一段階上の辛さに挑戦しようと思い切って注文。最初の一口は「うん、ちょうどいいかも?」なんて思ったのも束の間、すぐにその辛さがジワジワと効いてきて…結果、ヒーヒー言いながら食べることに。
口の中が熱くて、スープを一口飲むたびに鼻から汗が出てくる。お水を飲んでも、辛さは全然収まらない。まるで火を噴くドラゴンになった気分で、なんとか完食。正直、途中で「これは無理かも」と思いかけたけど、意地で最後まで食べきった。
けれど、食べ終わった後に感じたのは「やっぱり、ほどほどがいいな」という素直な感想。少し辛いぐらいなら美味しく楽しめるけど、辛すぎると味もわからなくなってしまう。ちょっとした挑戦のつもりが、今日は口と胃にとっての「試練」になってしまったみたいだ。
次回は、もう少し控えめな辛さで、辛さの「ほどよいライン」を楽しみたいと思う。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、だね。
後悔と突発的な行動の関係
振り返ってみると、私の人生には後悔が多いと感じる。けれど、その後悔のほとんどが、突発的な行動を取った時に生まれているような気がする。
突発的に決めたことや、思いつきで行動したこと。それは瞬間的な勢いで行ったもので、後から考えれば「もう少しじっくり考えてから決めればよかった」と思うことが多い。例えば、何かに衝動を感じて行動してみても、その場のテンションが冷めた後には、必ずと言っていいほど反省が待っているのだ。
もちろん、時にはその突発的な行動が良い結果を生むこともある。思いがけないチャンスが巡ってきたり、普段なら出会えない経験ができたりすることもある。けれど、その分リスクも大きい。慎重に考えた上で決めた行動とは違い、後から後悔しても、あの瞬間の自分に戻ってやり直すことはできないのだ。
最近は、この「突発的な行動が後悔を生む」というパターンに気づき始め、少しずつ行動を変えようとしている。行動する前に深呼吸して、頭の中で一度立ち止まる。そして、「これで後悔しないだろうか?」と自問するようにしている。急いで行動するよりも、少し時間をかけて慎重に判断することで、少しでも後悔が減ればと思うのだ。
後悔は誰にでもあるものだけれど、私にとっては特に突発的な行動が引き金になりやすいと感じている。これからも、自分をコントロールする術を学びながら、少しずつでも後悔を減らしていけたらと思う。
昭和・平成・令和のアイドルたちと、私の「河合奈保子」さん愛
今日は少し暇だったので、家に帰ってからふとアイドルの映像を観てみた。昭和、平成、そして令和と時代を超えて活躍するアイドルたち。それぞれの時代にそれぞれの魅力があるけれど、やっぱり「河合奈保子さんって素敵だな」と改めて感じた。
昭和のアイドルには、今ではあまり見かけないような清純さと、どこか親しみやすい雰囲気がある。河合奈保子さんも、柔らかな表情と伸びやかな歌声で、観る人をすっと惹き込む力を持っている。昭和の時代にはテレビも今ほど多様ではなく、アイドルたちは多くの人にとっての「憧れ」であり「スター」だった。その頃のアイドルは、ただ歌って踊るだけでなく、みんなの心の中にいる大切な存在だったのだろうと思う。
平成のアイドルたちは、また違った魅力を持っている。メディアの多様化とともに、アイドルもパーソナリティを前面に出すようになり、親近感が増した気がする。そして令和のアイドルは、SNSやYouTubeを通じて、さらに身近な存在に感じられる。昔のような「手の届かない存在」ではなく、応援したり、日常を共有したりできる距離感が、新しい魅力なのかもしれない。
そんな中でも、私にとっての「アイドル」といえばやはり河合奈保子さんだ。彼女の笑顔と優しい歌声には、どこか懐かしさと温かさがある。観ていると、昭和の良さを改めて感じるとともに、時代を超えた輝きを放つ彼女の存在に心が和む。
昭和、平成、令和と、アイドルは変わってきたけれど、私にとって河合奈保子さんはいつまでも特別な存在。時々こうして映像を観て、心を癒してくれる大切な時間だと感じる。
河合奈保子さんへの愛を中心に、時代ごとのアイドルの魅力を振り返る内容にしてみました。
SNS断ちをして、ようやく訪れた静寂
SNSをすべて辞めてから、どれくらいの時間が経っただろう。最初の頃は、ふとした瞬間に戻りたい衝動が湧いてくることが多かった。あの絶え間なく流れる情報や、つながりの感覚。何かを見逃しているような不安が静かに胸に押し寄せてきたものだ。
けれど、最近になって、その衝動がようやく消えたことに気づいた。戻りたい気持ちが消え去ったことで、日常の中に静かなスペースが生まれたような感覚がある。そして、そのスペースが今、私の執筆のために使える余白になっていると感じる。
SNSを手放すことで、他人の評価や流行に惑わされることなく、自分の中にある言葉を素直に書けるようになった。それは、まるで自分自身との対話に集中する時間が増えたようで、創作の世界がさらに広がっていくような気がする。
もしも、また何かに心が揺れたとしても、今は知っている。この静寂が、私にとって大切な場所であり、執筆にとっても必要なものだということを。
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年金事務所までの無駄足
今日は、久しぶりに「年金事務所」に出向いた…はずだった。
朝からしっかり準備して、行くべき書類も完璧に揃え、気合いも入れて家を出たのだが、目的地に着いた瞬間にある違和感。「あれ、もしかして、来なくてもよかった?」という予感が頭をよぎる。案の定、職員さんに確認すると、「本日は手続きは不要です」と笑顔で告げられる始末。
確かに、考えてみれば、わざわざ来る必要なんてなかったのだ。そう、完全なる勘違い。無駄足に終わったこの訪問は、私にとって散歩の一環だったとポジティブに受け止めるしかない。あえてポジティブに捉えるなら、健康的にウォーキングできたし、天気も良く、悪くない時間だった。
しかしながら、「空想の中の自分」は、なぜか年金事務所の担当者と世にも奇妙な会話を繰り広げており、つい帰り道ではひとりでニヤニヤしてしまう。こういう妄想ができるからこそ、無駄足もまた一興。