紗和の日記
繊細な感性が役に立つ時、そして苦労になる時
繊細な感性は、時に私にとって大きな財産になります。でも、同時にその感性が自分を苦しめることもある。この感性が役に立つ時と、逆に苦労になる時を振り返ってみると、自分がどんなふうに世界を感じているのか、少しだけ整理ができる気がします。
役に立つ時
繊細な感性は、特に創作活動や表現をする場面で力を発揮します。小さな変化や微妙なニュアンスに気づけるからこそ、物語や文章に深みを持たせることができる。風の音や人の表情、色のトーンなど、他の人が見過ごしてしまうような細かなことにも心を動かされ、それを言葉や作品に落とし込めるのは、繊細な感性のおかげだと思います。
また、誰かの気持ちを察する力にも繋がることがあります。相手の表情や声のトーンから「こう感じているのかな?」と気づくことで、自然とサポートできる場面も多いです。繊細な感性は、相手を理解しようとする姿勢を生み、深いコミュニケーションを取る助けになります。
苦労になる時
一方で、この感性が苦労の種になることも少なくありません。たとえば、些細なことで過剰に反応してしまい、心が疲れてしまうこと。人混みのざわめきや、強い光、匂いに圧倒されてしまうと、ただ日常生活を送るだけでもエネルギーを消耗してしまいます。
また、他人の感情に敏感すぎるあまり、自分の感情を置き去りにしてしまうこともあります。相手の気持ちを察しすぎて、必要以上に気を遣ったり、自分が本当はどうしたいのか見失ってしまったり。繊細な感性が、自分を縛る鎖のように感じる瞬間もあります。
どう付き合うか
繊細な感性を持っている以上、それを完全に切り離すことはできません。でも、受け入れ方次第で、感性を自分の味方にすることができると思っています。疲れたときは自分を休ませることを大事にしたり、感性を発揮できる場を選んで挑戦したりすることで、その感性をポジティブに活かせるようにしたい。
繊細であることは弱みでもあり、強みでもある。そのバランスを自分の中で見つけながら、少しずつ生きやすい方法を模索していこうと思います。
散歩は、ゆとりを持ってラフに楽しむもの
散歩って、ただ歩くだけのようでいて、実は奥が深いと思う。目的地を決めず、ゆったりとした気持ちでラフに歩くと、気持ちが軽くなっていくのを感じる。だから、散歩に行くときは「ゆとり」を大切にしたい。
歩くペースも気分次第。早歩きで運動するのもいいけれど、私はのんびり歩くのが好きだ。周りの景色を楽しみながら、自分のペースで足を進める。スマホを見たり、急いで歩いたりするのではなく、周りの空気や音、風景を感じることに集中するのがポイント。
服装もラフであることが大事。動きやすいスニーカーに、リラックスできる服。おしゃれな散歩も悪くないけれど、あまり気を使わないほうが気持ちが楽だ。ふとしたタイミングで公園に立ち寄ってみたり、小道に入ってみたりする自由さを楽しむのも散歩の醍醐味だと思う。
散歩に出かけると、普段気づかない景色に出会えることがある。季節ごとの花が咲いていたり、近所の新しいお店を発見したり、小さな子どもたちの笑い声が聞こえたり。そんな些細なことが、心をほぐしてくれる。
特に目的がなくても、ただ歩く。それが散歩の良さ。少しだけ外に出て、自分を開放する時間を持つことで、心の中にスペースが生まれる気がする。散歩に行くなら、焦らず、ゆとりを持ってラフに楽しむ。これが私のおすすめのスタイルだ。
カフェで執筆、気分転換にぴったり!
最近、気分転換も兼ねてカフェで執筆をするようになりました。iPadを片手に、お気に入りのカフェに出かけて、のんびりと原稿を書く時間。これが思った以上に良いリフレッシュになっています。
家での執筆も落ち着くけれど、やっぱり同じ環境が続くと行き詰まることもあります。そんなとき、カフェに行くと周りのざわめきや、漂うコーヒーの香りが新鮮で、自然と頭がクリアになる気がするんです。
特にお気に入りのカフェは、静かすぎず、でも騒がしすぎないちょうど良い空間。人々が行き交う様子や、窓から見える風景を眺めているだけで、新しいアイデアが浮かんだりします。なんだか、自分もその世界の一部になったような感覚が心地よいんですよね。
iPadで原稿を書くのも快適です。軽くて持ち運びやすいし、ペンで手書き風にメモを取るのも楽しい。時には絵を描いてみたり、資料を調べたりと、執筆の幅が広がるのも魅力的。充電さえ気をつければ、ほぼ無限に創作ができる気がします。
カフェで執筆するようになって、家にいるときとは違ったインスピレーションが得られることを実感しました。たまにはこうして環境を変えることで、停滞していたアイデアも動き出すような気がします。
これからも、執筆の合間にカフェでのんびりする時間を取り入れて、心も頭もリフレッシュさせながら原稿を書いていこうと思います。
大切な友人たちとの時間
私には大切な友人がいます。一人は場面緘黙症を抱える女性、もう一人はチック症を抱える女性。彼女たちとの付き合いは、特別で、私にとってかけがえのないものです。
場面緘黙症の友人は、言葉でのコミュニケーションにハードルがあるけれど、その分、心の内を伝える手段として表情や仕草がとても豊かです。最初は「どう接したらいいのだろう?」と戸惑うこともありましたが、今では彼女のペースに合わせた会話や、静かに同じ時間を共有する心地よさを大切にしています。
チック症の友人は、特定の動作や声が繰り返される特徴を持っていますが、それは彼女の一部であり、特に気にすることなく一緒に過ごしています。むしろ、彼女の明るさや前向きな姿勢に助けられることが多く、その強さに感心するばかりです。
二人との関係の中で学んだのは、障害があってもその人自身の個性が輝いているということです。彼女たちと話す時間や、共有する静かなひとときは、私にとって心を満たしてくれる大切な時間です。
お互いの違いや個性を尊重し合い、無理なく付き合える関係が築けていることに感謝しています。彼女たちと一緒に過ごすことで、私は多くのことを学び、人間関係の本質を考え直すきっかけをもらっています。
これからも、この特別な友情を大切にしながら、お互いに支え合っていけたらと思います。
パーソナリティ障害と、いつもそばにある謎の孤独感
僕はパーソナリティ障害を抱えている。そのせいなのか、日々の中で常にどこかに「謎の孤独感」が付きまとっている気がする。誰かと一緒にいても、楽しい時間を過ごしても、ふとした瞬間に「ひとりだ」と感じるこの感覚は、一体どこから来るのだろう?
孤独感と聞くと、「人とつながれていない」「一人ぼっち」というイメージがあるかもしれない。でも、この感覚は少し違う。たとえ目の前に人がいても、心の中にぽっかりと穴が空いているような感覚だ。何かをして埋めようとしても、またすぐに戻ってきてしまう。
もしかすると、この孤独感は「自分自身を理解できていない」から来るのかもしれない。自分が何を感じ、何を求めているのかを、時々自分でもわからなくなる。そんな自分を持て余してしまう瞬間があるとき、孤独感はさらに強まる。
でも、最近はこの孤独感とどう付き合うかを考えるようになった。無理に埋めようとせず、「ああ、また来たな」と軽く受け流すことで、少しだけ楽になることもある。そして、孤独感を抱えたままでも、自分の好きなことに集中することで、別の形の充実感を見つけられることもある。
パーソナリティ障害と生きる中で、この「謎の孤独感」はきっとこれからもついてくるだろう。でも、それを完全に消そうとするのではなく、自分の一部として受け入れながら、少しずつ向き合っていけたらいいと思っている。
孤独感があるからこそ見える景色もある。そう思えば、この感覚も悪いことばかりではないのかもしれない。
新しい作業に挑戦する楽しさ
最近、自分の中で少しずつ変化を感じています。これまでなら拒んでいたような作業に、積極的に挑戦できるようになってきたんです。初めは「自分には無理だ」と決めつけていたけれど、実際にやってみると、意外とできることに気づきました。
たとえば、これまでは苦手だと思っていた細かい作業にも挑戦してみたら、「思ったよりも面白いかも」と感じることがありました。最初は手探り状態で、失敗もありましたが、それを繰り返すうちにコツをつかみ、できるようになる感覚がとても新鮮でした。
新しいことを始めるときには、やっぱり不安がつきもの。でも、その不安を越えて「できた」と感じた瞬間の達成感は格別です。そして、その達成感が少しずつ積み重なると、自然と仕事そのものが楽しくなってくるんですよね。
もちろん、すべてが順調というわけではありません。挑戦する中で壁にぶつかることもあるし、うまくいかないこともあります。でも、それを含めて今の自分には必要なプロセスだと思えるようになりました。
新しい作業に挑戦することで、仕事に対する楽しさを少しずつ見出せるようになった自分を、ちょっと誇らしく思います。この気持ちを忘れず、これからもいろいろなことに挑戦し続けていきたいです。
夜の時間は、私だけの特別な時間
一日の終わり、夜の時間は私にとってとても大切なひととき。日中の忙しさや喧騒が嘘のように静まり返り、ようやく自分だけの時間がやってくる。そんな夜だからこそ、心からリラックスできる瞬間を楽しみたいと思う。
夜の時間の良いところは、その静けさ。テレビやスマホの音を消して、部屋に漂う静寂を感じるだけで心が落ち着く。外からの光が少なくなることで、部屋の照明も柔らかく感じられ、穏やかな気持ちになれる。お気に入りの本を開いたり、音楽を静かに流したり、時には何もせずにぼーっとして過ごすこともある。
この時間は、誰にも邪魔されることなく、自分と向き合える貴重な時間だと思う。日中はどうしても周りに合わせたり、やるべきことに追われたりして、気づけば自分の気持ちを置き去りにしてしまいがち。でも夜の時間は、それを取り戻すためのリセットの時間でもある。
ゆっくりお茶を飲みながら、その日の出来事を振り返ったり、明日のことを少しだけ考えたり。何かを書きたい気分になれば、ノートを開いて思いのままに書き綴る。こういう時間があるから、また明日も頑張れる気がする。
夜の時間をどう過ごすかは人それぞれだけど、私はこの時間をとても大切にしている。どんな日であっても、夜の静けさが私にとっての癒やしと安らぎを与えてくれるからだ。
中華料理のオードブルで家族団らん
今日は、中華料理のオードブルを買ってきました。見るからに美味しそうなエビチリや酢豚、春巻き、焼売、さらには八宝菜まで、いろんなおかずがぎっしり詰まっていて、蓋を開けた瞬間からテンションが上がります。
このオードブル、家族で食べるのにはちょうど良いサイズ感。1人ではちょっと多すぎるけど、みんなで分け合うとちょうど良い量なんです。それに、いろんな味を少しずつ楽しめるのが嬉しいポイント。中華料理って一品だけでも満足感があるけれど、こうやっていろいろなおかずを味わえるのは本当に贅沢。
エビチリはプリプリのエビがピリ辛のソースに絡んでいて、絶品!春巻きはパリッとした食感と中のジューシーな具材が最高でした。酢豚の甘酸っぱい味もクセになります。箸を伸ばすたびに「次はどれにしようかな」と迷う楽しさがあって、あっという間にみんなで完食。
中華料理のオードブルは、特別な日じゃなくても、こうやって家族と楽しく食べられる良い選択だなと改めて感じました。手軽に買えて、豪華さも感じられるので、また機会があればリピートしようと思います。
歌で脳を活性化!
歌を聴いたり、歌ったりすることが、脳に良い影響を与えるって知ってますか?科学的なデータはさておき、私は個人的に「歌は脳の活性化に良い!」と確信している一人です。
まず、歌を聴くと気分が上がる。悲しいときには癒やされるし、元気がないときには励まされる。感情を引き出してくれる力があるんですよね。これって、脳の感情を司る部分が刺激されている証拠だと思います。何気なく流れている音楽も、実は脳にしっかり働きかけているなんて面白いですよね。
そして、歌うことの素晴らしさ!歌詞を覚えたり、音程を取ったりするのは、まさに脳をフル活用する作業。難しい歌に挑戦しているときなんか、脳がぐるぐる回っているような感覚になることも。しかも、それを繰り返すうちに少しずつ上手くなっていくのが、また楽しい。
歌うことでストレスも発散されるし、何より声を出すという行為そのものが、全身のエネルギーを使っている感じがして気持ちいい。脳だけじゃなく、体全体にも良い影響がある気がします。
私は、歌を聴くのも歌うのも好きだから、これからもどんどん脳を活性化していこうと思っています。皆さんも、お気に入りの曲を口ずさんでみては?きっと気分も脳もリフレッシュできるはずです。
私のやりたいことは、やっぱり「書くこと」
最近、「発信」という言葉をよく耳にする。SNSで自分の意見を発信する人、動画で自分の世界を表現する人。みんなそれぞれ、自分の形で思いを届けている。でも、ふと考えたとき、私は「発信すること」よりも「書くこと」そのものがやりたいんだと改めて気づいた。
もちろん、書いたものが誰かに届いて、何かを感じてもらえたら嬉しい。それが創作の醍醐味でもある。でも、それ以上に「書く」という行為そのものが、私にとっての目的であり、やりたいことそのものだ。
ペンを握る感触や、キーボードを叩くリズム。頭の中のアイデアを言葉に変えていくプロセス。全てが自分にとって特別で、書いている間は他の何も考えなくていいくらい集中できる。それが私の「幸せな時間」だ。
たまに、「書くことに意味があるのか」と迷うこともあるけど、結局のところ、答えはいつも同じ。「書きたいから書く」。これに尽きる。たとえ読まれなくても、たとえ評価されなくても、私は自分のために書き続けたい。
「発信すること」が重要だと言われる時代だけど、私にとって大切なのは、その先にある結果よりも、書くという行為そのもの。それはきっと、これからも変わらないだろう。
だから、これからも書き続ける。それが私のやりたいことだから。
垢すりに行きたい気分
最近、ふと「垢すりに行きたいなぁ」と思うことがある。特にこれといった理由があるわけじゃないけれど、なんだか久しぶりにガリガリやってもらいたい気分なのだ。
あの独特の感覚、覚えている人も多いんじゃないだろうか?垢すりタオルで体中をしっかりこすられて、びっくりするほど垢が出てくる瞬間。最初はちょっと痛いけど、その痛みの先に待っているのは驚くほどツルツルの肌。そして、なんとも言えない爽快感。あれを味わうと、もうクセになる。
普段のシャワーやお風呂ではなかなか得られないこの「生まれ変わる感覚」。忙しさにかまけてなかなか行けていないけど、最近ちょっと肌のざらつきが気になるし、これはもう垢すりサインなのかもしれない。
垢すりを終えた後のスベスベな肌と、何とも言えない開放感。その後に温泉やサウナに入ったり、冷たい飲み物でリフレッシュしたりするのも最高だろうなぁと想像している。こうして書いているだけでも、なんだか行きたくなってきた。
少し手間がかかるけど、たまには自分の体をリセットしてリフレッシュするのも大事。よし、近いうちに垢すりに行こう。そして、心も体もピカピカにして、また日常に戻る準備を整えたいと思う。
創作を頑張る人との話は、なぜこんなに面白い?
最近、創作を頑張っている人と話す機会があった。その人は、小説を書いている最中だとか、イラストを描いている最中だとか、とにかく何かを生み出そうとしている。そんな人たちとの会話が、とにかく面白い。
まず、そのエネルギーがすごい。創作のアイデアが溢れていて、それをどう形にしようか悩みながらも楽しんでいる様子が伝わってくる。その情熱は、話を聞いているだけで自分にも刺激になるし、もっと何かをやってみたいという気持ちが湧いてくる。
さらに、創作の裏話も興味深い。「どうしてその設定にしたのか」「キャラクターにどんな背景を持たせたのか」「ここで悩んだ」といった話が、まるでその人の頭の中に入ったような感覚で聞ける。創作をしている人たちの視点や考え方には独特の深みがあって、その話を聞いているだけで自分の感性も磨かれる気がする。
創作って孤独な作業のイメージがあるけれど、それを語り合うことでお互いの世界が広がっていくのを感じた。「頑張っている人と話すと刺激を受ける」とはよく言うけれど、創作の場合はその刺激がさらに強く、持ち帰るエネルギーが多い。
私自身も創作を続けているけれど、こうやって他の人の話を聞くことで新しいアイデアが浮かんだり、自分の作品をもっと良くしようと思える。だからこそ、創作を頑張る人との話はいつだって面白いし、貴重だ。
これからも、そういう話をもっと聞いて、もっと刺激を受けていきたい。そして、自分もそんなふうに誰かに刺激を与えられるような創作をしていきたいと思う。
あんかけチャーハンの熱さと美味しさ
今日は久しぶりにあんかけチャーハンを食べた。香ばしいチャーハンに、とろりとしたあんがたっぷりかかっていて、見た目からして美味しそう。お腹も空いていたし、さっそく一口…と思ったら、これが予想以上に熱かった。
湯気が立っているのは見ていたけど、まさかここまで熱いとは思わなかった。口の中を火傷しそうになりながら、慌てて水を飲む。あんがとろとろ過ぎて、なかなか冷めないのも困りもの。結果、ひと口食べるたびに少し待たなければならず、急いで食べたい気持ちと戦う羽目に。
それでも、食べ進めるうちに熱さを忘れるくらい美味しかった。あんの旨みがチャーハン全体に絡んで、噛むたびに幸せな気分になる。具材のシャキシャキ感と、あんのトロトロ感の組み合わせが絶妙で、「これぞあんかけチャーハンの醍醐味だな」としみじみ感じた。
時間はかかったけど、その分じっくり味わうことができたし、なんだか満足感も倍増。あんかけチャーハンの熱さは、ある意味ご馳走の一部なのかもしれない。次回はもう少し冷めるのを待つ余裕を持ちつつ、またこの美味しさを楽しみたいと思う。
寒暖差疲労と現代社会の常態化した疲労感
最近、寒暖差が激しくて、身体がついていかない日々が続いている。朝は冷えるのに昼間は暖かく、また夜になると一気に冷え込む。こんな気温のジェットコースターを毎日経験していると、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていくのを感じる。
でも、ふと考えてみると、寒暖差に限らず「疲労」って今の社会ではもはや常にあるもののような気がする。仕事に追われ、情報に振り回され、休む暇もなく毎日を走り続けているような感覚。疲労が「特別な状態」ではなく、デフォルトになっている気さえしてくる。
寒暖差疲労は目に見えないから厄介だ。体調が悪いわけじゃないけれど、どことなく元気が出ない。やる気も落ちて、いつもの作業に集中できなくなることもある。それが続くと、気持ちまで沈みがちになる。でも、これって寒暖差だけのせいじゃなく、日頃の生活で積み重なった疲労が表に出てきているのかもしれない。
思えば、現代社会って「疲労すること」が前提になっているような構造だ。効率やスピードを重視しすぎて、どこかで無理をしている人が多い。それに気づいても「みんな頑張っているんだから」と自分を奮い立たせる。それが疲労を常態化させる要因になっている気がする。
でも、少し立ち止まってもいいんじゃないだろうか。寒暖差で疲れるのも、忙しさで疲れるのも、結局は身体と心が「ちょっと休んで」と言っているサインだと思う。疲労が「当たり前」にならないように、少しずつ自分を労わる習慣を作っていきたい。
疲れるのが普通の社会で、それをどう和らげていくか。これからも模索しながら、無理なく過ごしていこうと思う。